昭和52年10月13日 朝の御理解
御理解 第79節
「商売をするなら、買い場、売り場と言うて、もとをしこむ所と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れるから、やはり、そのほうが得じゃ。体はちびるものでないから働くがよい。」
お商売をさせて頂く者が、ここんところが頂きぬけるというか、頂きぬけたらたいした商売人になれると思うんです。ところがやはり商売をする者は、何時もそろばんを持っております。ですからなかなかこうすれば信用も受けられる、おかげも受ける同時に、安う売れば数が余計売れるから、そのとおりであると言う事は分かっておる。分かっておるけれどもなかなか出来ん。そこんところがね私は難しいと思う。そこで一心発起してもう、いよいよ社会に奉仕をすると。
お客様本位でいくと言う事で腹を決めさせて貰う。その腹の決まったところから、いうならば社会奉仕であり、言うならお客様本位であると言う事になり、ほんならなったからと言うて直ぐそれが結果とか、効果が見えてくるものでは決して無い。やああっちはなかなか信用のある品物を売りござる。そしてどこよりも安い人物もええと、お客さん一般に分かってもらうためには、それまでには随分とやはり時間もかかること。けれどもこれはもう絶対の道なんだ。
もう絶対繁盛するんです。それが分かっておってなかなか。人が十銭で売るなら八銭で売らなきゃならんところを、十一銭も十二銭も取って。それをおかげを頂いたといっておる商売人が実は多いわけです。私共がやっぱ過去の商売人時代、商人時代はそれだったように思うです。ただ商売上手というか。ただちょっと利口だとか、また目先が利くとかと言った様な事だけで、確かにそのおかげを頂いて儲かっとるごたるけれども、差し引きすると儲かっとらん繁盛してない。
結局信用を得てないから。私は今日はそこんところをね、ほんならここの御理解を商売人ではない、一般私共信心させて頂く者、みんなが頂けるような頂き方をできる、まあ御理解だと思うんですけれどもね。昨日美登里会でしたからで、お話をしたことでしたけれども、昨日の朝御心眼にこの仁丹ですね、人偏にこう二と書いてある仁丹。いわゆるあの仁丹を頂くんです。それでいうならばどう言う事かというと、仁と言う事はやっぱ、人と言う事でしょうけれども、仁というのは、あの仁徳天皇の仁ですよね。
これは人だけど仁というのは、やはり徳を受けたと言う事だと思うです。徳を受けた人だと。所謂あちらは仁徳があると言う時の仁ですね。それこそ仁丹じゃないけれども。口に含んだ時のさわやかさ、涼しいごたる感じが致しますがね、そういうそのさわやかなまでの信心というものがです。まあ現在の合楽にまあ求められているわけです。ところが現在の合楽の場合は、ほんならそのさわやかさではなくて、もう何ちいうですか、ねじ苦しさというか、もう執熱さというかいうならば、信心の香りというよりも信心の匂いがプンプンとしておるような感じ。
だからそれを頂きつけたものは素晴らしいと言い、それを周囲におって匂いだけきいたものは、もう鼻持ちならんと言う様な見方が、いうならば合楽の現在の状態じゃなかろうかと。まあ今日の御理解でいうならばです、もう絶対の道だと、もう絶対儲かる道だと。それは人よりも。売り場買い場を大事にするだけではない。いうならば他所よりも十銭のものを八銭で売る、身体はちびるもんじゃないから一生懸命に働く、それを今行じておるところだとこういうです。
だからこの人から、この仁徳の仁と言う様に誰からでも親しまれ、誰からでも尊敬される。誰からでも成程合楽が言っておられる事が素晴らしいと言う様に、この分かってもらえるひとつの過程にあるときだと。仁丹のようなそれこそあのさわやかな。清々しいまでの信心のいわば過程なんだと。昨日夕方、あの合楽理念を語るという、いつか合楽理念の特集号が出ました。それに最近のまあ合楽理念の大事な所を、前後に賦してこの一冊の本が出来て、今度記念祭、皆さんにこれを差し上げたいと思って。
昨日まあ一読させて頂いたが、本当に素晴らしいです。もう読み返しても読み返しても素晴らしいです。だからもう臭いを構わずに、本当に信心を頂きたいという、本当に求め抜いておる人ならもう、もうこれを読んだだけで、合楽に飛びつくだろうと言う様な感じです。けれどもそのいうなら説き方がです、非常に語調が荒いというですかね。もう絶対とか。もう合楽理念じゃなからにゃ助からんとか、もう思うておる事をそのままにこう、表現してあるわけです。
ですからその合楽以外の者は、「そげな事いったっちゃ、こげなでも助かるじゃないか」と言った様な反発しながら、見たり読んだりする向きになってくる時に、そのやはり、みんなに受け入れられないのじゃなかろうか。と言うて今合楽にさわやかさが出たんでは可笑しいです。その臭いのする時にいうならば、力を受けるときだというふうに思うです。どくだみという草がありますね、もうあれを切ったら、もう手まで臭くなるでしょうが、臭いです。
けれどもあれが日陰干しなら、日陰干しにされてあれが、お茶代わりに飲むようになったら、美味しいものだし、しかも身体の何にでも効くと言う様な、その効果のあるものなんです。ほらもうあげな生ん時のような臭かなら、誰も飲み手はなかです。けれどもあれが陰干しになって、それがいったん煎じられて出されますと、私なんかはもう朝から晩まで、水代わりにあれを頂いておるわけですけれども。もうお茶よりも美味しい。冷たくして飲むときには良いようにあります。
だからほんなら合楽の信心がです、いうならどくだみのまあだ、生々しい臭みの一杯持っておる時じゃないだろうかと。だからこれが陰干しになって。そして人に薦められるときには素晴らしかろう。昨日福岡の私はいつもそれを思うんです。川上さんですもう毎日、日参をされるようになって四年目です。本当にとても真似の出来るこっじゃない。一生懸命のお参りをなさる。ですからまあ電車の中であろうが、バスの中であろうが、その人に伝えていかれる。
ところが不思議に伝えられるけれども、ならあの人が導きによって参ってくるという人はない。どのくらい話よりなさるか分からんのです。昨日一昨日も久留米におられる方で、もうそれこそあの川上さんと、世の中には奇特な人があるもんじゃあるですねと言う様にです。もう着物をあげたり洋服をあげたり、ハンドバッグをあげたり、もうどれだけその方から頂いてるか知れんですよ。もう貰うてくれと言うてあの言いなさるそうです。もう何時も着てみえるとは、これもあの方から頂いた。
それこそあのまあ電車の中やら行き戻り、何時も会われる、会われるとお話をされる、熱心に聞かれる。そして色々自分の悩みも打ち明けられる。それでお取次ぎを頂いてお願いをしてあげましょうち言うと、お賽銭を託けお初穂を託けしてどうぞお願いして下さい。御神米を持っていってあげると大変喜ばれる。だから一遍是非合楽の親先生にお目にかかってご覧なさい。はあ私もそう思いますと。今度は十六日が記念祭ですから、是非というて前々から言うてあるわけですね。
それでまた念のために昨日一昨日、そのお届けをして、昨日行かれたわけですね。そしたら十六日は何かこう用事があるとか何とか言うて、どうしても動こうとしなさらん。もう「そんなこつは問題じゃないですから、私が迎えに来るから行きましょう」「いいえちょっと待って下さいお参りするとは、今度の十六日は行けんごたる」もう、そう言う事が何べんあったか分からないです。
ですからもうその、川上さんのですね、その信心の素晴らしい事は知ってあるけれども、あげん打ち込まなんごつどんなるなら、怖い思いがなさるのじゃないでしょうか。しかも福岡から合楽まで四年間もお参り、あげな風に参らんならんごつならんなら困るという風に思うておられるのじゃないでしょうか。いわゆるその信心臭というか臭いがプンプンしとるもんだから、あのなかなかお参り言う事を聞こうとなさらん。と言うてほんなら昨日もお初穂だけは託ってきてある。
もう執熱か大概な者ならもう、あの何回も何回もお参りしてみなさい、お参りなさいと言うて進めれれる。それでいてほんなら自分が嫌われているとは思われない。その証拠には洋服を持ってきてあげる、もうそりゃもう本当どれだけ貰いなはったか知らんです。でそうにゃ物持ちで衣装持ちでありなさるだろう。それが皆もう新しい着物、殆ど新しいようなものばっかりです。たまには牡丹餅を作って持っていってあげられたり、ならうちで作った奈良漬だからと言うてその、託けられる。
けどもほんなら教会にほんなら連れてまいってくれと言う事には、悩みやら難儀を持っておられるのだけれども言われない。余りの強烈な臭いにもう、いうならばそのたじたじ、相手の方がしておりなさるのではなかろうかと思うです。だから私はこうやって皆に沢山一度に話すけれども、言うならお導きも出来ませんとこう言われるけれどもです。そういう時になら川上さん自身が、愈々力を受けておられる時だと思いますですね。もう大概の者なら二、三遍言うてから、参んなさらんならもう言わんですね。
けれどもどうでもやはり、お導きをしたいと言うて、もう今度の記念祭だけは参ってもらおうと思いこうじゃった。それでいよいよ十六日も近付いたから、行かれたけれども、「いいえ」と言うてこう、もう私から避けるようにして、そのまあ一緒に参ろうとは言われない。有難い事は分かっとる。しかし一歩合楽に足を踏み入れたが最後、もう取り持ち付いたごたるふうで、離れられんごつなったら、大変と言った様なものを感じなさるんじゃないだろうかとこ思う。
いうならば、どくだみのまだ生々しい臭いに、いわばむせ返っておられるような感じがする。けれどもそれがです本当に、さわやかな仁丹のようなその、事になってきた時には、誰でもがそれに付いてくるだろう。そしていよいよ素晴らしいと言う事であろう。私は、今日の御理解は、全然、あの、意味が違ったような感じですけど、そうじゃないです。商売人がこうしてこうして、こうすれば信用も受けられる、必ず確かに繁盛するこつだけは分かってる、他所よりも安う売るのだから。
仕入先を大事にする、売り先を大事にする。他所よりか二銭は安うして売る。そして身体はちびるもんじゃないからと、一生懸命働きさえすりゃ、絶対信用が受けられて、そしてこれは仁徳も受けられて、店の信用も付くことは分かってるんだけれどもです。言うならごまかし半分のほうが、やはりそろばんを取ると、やはり商売人はごまかし半分が多いと言う事になる。それでまあ都合よう、具合ようやっていきよるごたるけれどもです。絶対の得と言う事にはならない。
ですからそこに一心発起してです。本当に奉仕の精神。ほんとにいうならばお客様本意の店にせねばという、ほんなら一心発起ができたところからです。ほんならこの事に取り組ませて頂いたら、もうそのあくる日から直ぐ結果が見えると言う事じゃ、決してないと言う事。一年経つか二年経つか、三年経つか五年経つか分からんと。それを貫き辛抱しぬいていかなければならん、その間が難しいのです。その間がです例えばいうなら、どくだみの生々しい時で。
あげなこつしよるなら、あぁたもう店はつぶれてしまうという風に、言われるときじゃなかろうかとこう思う。はぁあんたあげん安う売るなら、儲かりはいっちょん無いじゃないかと。けれどもそこを貫かせて頂いて、それが枯れたときですね。店に信用が付き、あちらの店は信用がある。あちらの店はどこよりも安いと宣伝することは要らん、いわばお客さんがまた次のお客さんを、いうならば、引っ張って来て下さるぐらいな、おかげになってくるわけ。
けどもそれまでは直ぐ、さあという訳にはいかんのです。今の合楽の信心とまあよう似とるように思います。昨日の朝朝の御祈念の、久留米の井上さんが住友生命の支店をなさっとるね、昨日は住友の社長さんが、久留米に見えると言うので、何か会合があるというお届けがございました。それでやっぱ住友の社長ともなると、随分偉いお方でしょうねと、私が申しましたら、「それが先生、貴方とお年が友達でありなさいます」と寅年です。ほうほんなら六十四歳になられる。
そしてその方は、とにかくやっぱ偉い方です。ノモハンでこの大腿部こっから切って、足が方一方ない。それでもまあ生き残りで帰ってみえて、すぐその住友生命に勤めておられたところを、もうこういう片輪者になったから。あの御用が人並みに出来ませんからと言うて、自分から辞任されようとしたら、まそん時のそこの支店長さんでしょうかね、社長さんでしょうかが、そう言う事を言わずにね、あの人よりも例えば一時間遅く出てきても良いから、勤めてくれというふうに言われた。
そん時にその方は奮起されたんですね、その親切に。そしてですなら片輪者だから、人より一時間遅く、出ると言った様な事では相すまん。そこでなら反対に人より一時間早く出ろうと、それから一時間早く出てこられる、生き方をされたそうです。だからおかげいただく人は違うでしょうが。私は戦地にでも同じことです。おかげを頂いて昨日末永先生が今日着くはずのが、ひと飛行機早くおかげを頂けて、昨日夕べ遅く一家中で無事に帰ってみえられた。
はあもうちょいともう大きな顔が、二人でこう下げちから、何ともうそこには赤ん坊が抱いてある。ほうやっぱもうブラジル辺な違うのち。もうそれ見ただけでブラジルと言う事が、すぐ分かる感じです。したら二人ながら子供がみんな色が白いでしょうが、所がこんだの子供はほんなブラジル人のごと色が黒か。(一同笑い)ほうこらブラジル産じゃけん違うのち言うた事でしたけど、まあ本当にまあみんな感動感激でした。
もう本当に神様のご都合も、もうとにかくもう話を聞くと、この帰ってくるまでのおかげというものはもう、どんこんこんこんされんごたる、やっぱおかげです。もう沢山荷物を持って来とるそうですが、全然検査を受けなかったそうです。そしてほんならその明日のつもりでおるけん、東京支部の方達が皆行くごつしとったわけです。ところがたまたま伊藤さんが念のために電話をかけられた。
そしたら今日着きますよち言う。そしたらそこでまあそれこそ、全部東京支部の方達が電話をかけたりしてから、まあ皆でようやくそれをあのまあ間に合うたと。もう沢山な荷物があって、まあ皆さん寄って頂いて良かったち。丁度それを秋永先生が遅うまでおられて聞いて帰られた。それで昨日あちらの共励会でしたから、あの共励会が終わってから直ぐあの支部員の方達がみんな、飛行場まで迎えに行って大きな車二台で、まあ無事におかげを頂いて、元気一杯で子供達ももう本当、おかげを頂いて帰って参りました。
もうそのまあ話はまた後から、ぼちぼちゆっくり聞こうと言うて、まあいましたけれどももうただちょっと話しておる、その一言一言の中にもうそれこそ生き生きとした神様の働きを受け続けに受けていきよる。だから先生方の言うなら信心が、もうそれこそもうまぁあの、いうならばそのどくだみの生々しいような時ですから。それを見方によっては、あのいうならば、あ、余りにも強引のような感じがする所があるわけですけれども、それが今なら彼の一生懸命の力になって行きよる、時だというふうに思うんです。
そして私はその今言う住友生命の、今社長さんであるという人のね、そのもう自分は辞められる積りじゃったけれども辞めんでも良い。身体が不自由なら人よりか、一時間遅れてきても良いから勤めてくれとこう言われた。その親切に感激してそれこそ人が一時間遅れてきても良いと言うならば、むしろ反対にお役に立たん自分だから、一時間早う行こうと言う様な生き方。もう末永先生が信心とその辺がよく似とると思いました。
例えば参りましてからもうその晩に、例えばあの遷座祭をするとかね、もうそのだからおかげを受ける人は、もう今日はもう疲れとるから、明日皆さんお祭りはさして貰おうと、言う様なもんじゃないわけです。おかげを受ける人受けない人。徳を受ける人受けきらない人は、ほんのその辺の所が紙一重です。私達もやはりおかげを受けたなあと思います。人が一遍参る時には、二遍お参りしようとこう思う。いつも申しますように善導寺に歩いてこうお参りをする。
こっちの飯田のほうからこう行く時には、丁度奥城が右手に見えますから、そこでやっぱこうお辞儀をする。またのほうに入って、あの橋があるところまで、善導寺おこしのあるところですね、あすこの前の橋の前まで来ると、今度は東の方に奥城が見えますから、また立ち止まって御祈念をする。一緒にあのこうちゃんがお参りしてきて、その何べんでもそげんお辞儀しなさらにゃいかんですかち言うたち。けれどもそこに奥城が見えよるじゃないのち私が言うた。こちらにゃ時には北側に見える。
こちらから行くときには東側に見える、そこに見えよるじゃないのと。さっきから一遍、拝うどるきん良かて言うようなもんじゃないです。だからそういう時にはです、いかにも、風雅人のように見えたり、変人のように見えたり。言うならばまぁあげな真似は出来んと言うて、臭いのするような感じがするけれども、私はもう一事が万事にそれが私がおかげを受けた元だと、自分で思うとります。
信心ではありません、けれどもその住友の社長さんという方がです。そういう心掛けが、その事だけではありますまい。もう一事が万事にそういう心掛けが、沢山の人から認められて、言うなら天下の住友さんの社長までされるぐらいなおかげを頂かれたのだと私は思うです。だから今こそ皆さんの場合でもです、ちった強引なごとあるけれども、もう我武者羅にでも、神様に向かうときであるという風に思います。
今例えば合楽理念を語る、もうこれに本当に信心を求めておるならば、取り付かねばおれないごたる、言うならば信心です。善意にしかもそれを真面目に聞いて下さる、読んで下さるならば一遍で飛びつく。ところがそこには、激しい言葉で表現してあるですね。絶対合楽理念でなからにゃ助からん。もう一切が合楽理念を持ってするほかは無いと言う様な表現がです、やはり相手に臭いを感じさせるのだろうと思います。そこで私共の信心が、愈々もう少し。いうならば枯れてくる。
枯れてくるというのは、生き生きとしたものが無くなるという意味じゃありません。それこそまあ清々しいというか、さわやかなまでの信心が、段々枯淡味というですかね、そういう味わいが出て来る様になったらです、こういう激しい口調やら、激しい風に言わなくっても、もう向こうのほうから、それに寄り付いて来る様なおかげにもなるだろうと思います。今こそ身体はちびるもんじゃないですから、本気で一生懸命人が人偏なら、私は行人偏と言う信心をさして頂かなければならない時である。
言う事が少しどうもごつい。言う事が神様を信じておるから、もう断言的なことも言えれる。激しくそれが言えれる。それがほんなら聞きようによっては。あっちはもう強引だという風に言われるような事になるのですけれども、過程であります。一心発起して愈々合楽理念の行者となろう。そして合楽理念をマスターして、本当に合楽理念を持っするほかは無いと言えれるところまで、私共の信心が成長していくためには、どうでもその過程です、通らなければ出来ません。
そしてその合楽理念が行の上に現されて、なるほど百姓は合楽理念を持ってするほかは無い。商売は合楽理念を持ってするほかは無いと言う様な、確信に満ちたいわばおかげが頂かれるためには、その間はですなかなか難しい。商売人が十銭のものを八銭で売る。数が売れるから、そのほうが得だと教祖が仰るが、もう誰でも分かり切った事。ところが目先の二銭を損をすると言う事がです。ほんなら一ヶ月なら一ヶ月損すりゃ、二ヶ月目から儲かるという事じゃない。
そら何年かかるやら分からん。それがみんなにお客さんに行き通るまでは、何年かかるか分からない。その辛抱が中々出来んのである。そしてそろばんを先にもって、幾ら儲かって幾らこうしなければと言う様な生き方になってしまう。その間を私は私共の信心の、言うなら合楽の信心のまあだ匂いがする。だからその匂いもね。構わずに打ち込んでくる人は、素晴らしいおかげを受けますけれども、その臭いにいうならば、耐えられないというか、その臭いが好かんという人は。」
だから今の合楽では、おかげは受けられないという事になります。我情我欲を離れる、そこには神徳の中に生かされてある実感が頂けれる。ほんなら我情我欲を離したから、もうその場から、神様の神徳の中にいかされてあるという事が分かるという事はありません。それを行の上に現して、間違いない我情我欲が離れたときにです、なるほど、わが身は神徳の中にいかされてあるという事が分かってくるのです。離したから今そういうおかげが頂かれると言う事ではありません。商売人が。
十銭のものを八銭で売り出したから、直ぐそれが数が余計売れるから得という事は。直ぐにそれが結果が現れてくると言う事ではありません。その間が一生懸命身体はちびれるものじゃないから、働くがよいと、その働きとその実行とがあいまって、おかげを頂いていくところに、いうならば仁徳の仁が頂けるのじゃないでしょうか。その間にいうならばどくだみの枯れていくおかげの時ではないだろうか。だから、先ずは、例え一心発起させて貰うと言う事が大事です。
そしていよいよ奉仕の精神、いよいよお客様本意、いよいよ奉仕の精神、いよいよ神様を中心にした考え方。神様本意の信心をさして頂く。そこから例えば商売でいうならば、余計売れると言う事になるでしょう、信用が付くと言う事になるでしょう。信心で言うたら。愈々神様のご信任を受ける事が出来るでしょう。人間の幸せの条件の全てが、まあ向こうの方からよって来る様なおかげにもなって来るでしょう。それは芽の目岐山にそう言う事があらわれると言う事は、決して無いのです。その間が信心辛抱ですよね。
どうぞ。